ARTIST Interview Houxo Que× QUO

Houxo Queさん

「アーティストは、
八百屋と変わらないって思うんです」
液晶ディスプレイに直接ペイントする作品などで
知られるHouxo Que(ホウコォ キュー)さん。
無機質なディスプレイを題材にするのは、どうしてか。
そして、アーティストは特別な存在ではないと語る、
彼のアートへの考え方とは?

QUOカード

「自分は現場にいない、でもこんなに
生々しくショックを引き起こすのは何か?」

制作のテーマにしていることは?

現代の私たちが見ている「イメージ」とは何なのか、というテーマを中心に考えています。
皆さんも毎日、スマートフォンでイメージを見ていますよね。パソコンがなければ仕事も、他人と連絡を取り合うことすらもできない。壊れたら、自分の一部が欠損したような気持ちにもなる。もはや社会生活を営むのに欠かせない液晶ディスプレイというものが、美術の歴史の中では一体どんな価値をもつのか?絵画や写真から続く平面表現の歴史の中で考えると、どう考えられるのか?それを検証するために制作しています。

なぜディスプレイというものに関心をもったのですか?

ひとえに僕が、日ごろの生活の中であまりにもディスプレイを見すぎているからなんです。一番強く感じたのは、やっぱり3.11の大地震のときでした。テレビやインターネットで津波や被災地の状況を見すぎて、多くの方と同様に、僕も心理的なショックを受けてしまった。自分は現場にいない、でもこんなに生々しくショックを引き起こすのは何か?と考えたとき、それは目の前にあるディスプレイと、その背後にあるネットワークだった。
そうだ、と思ったんです。私たちは日常的に、自分にとってあまりにもリアリティの強いイメージを受け取り続けていて、もはや外すことができないものとして生きている。それに対しての好奇心や恐怖、そしてあまりにも自分を支配しようとすることへの怒り。それらが僕のベクトルをディスプレイというものに定めさせて、それゆえに表現する衝動が生まれてくる。というのが実際のところです。

インタビューを受けるHouxo Queさん

「見た瞬間に人のケツをけっ飛ばすぐらいの
衝撃を与えないとダメだと思ってるんです」

今回の作品は、どんな意図で制作されたのですか?

「Death by Proxy - GHOST」という作品で、ディスプレイが壊れた瞬間に生まれる視覚表現、特に壊れた画面が映し出す模様を、表現に落とし込んだものです。
ディスプレイが壊れた時にどんな模様が現れるか、僕には操作できない。つまり完全に人間がつくったプロダクトなのに、中には人間が管理できない空間があるわけです。そう考えるとすごく、変なものを扱ってるんだなと思うようになった。

僕はディスプレイっていうものに対して、愛憎のような感情があって。育った環境に当たり前にあって、なおかつ自分をすごく縛り付けてもいる。愛情と憎しみがミルフィーユになっていて、憎しみが一番上に来ていると「ぶっ壊してやろうか」みたいな気持ちになるときがあるんです。そんなタイミングに、もしディスプレイに鉄パイプを刺したら、一体どんなイメージが起き上がるんだろう?イメージは死ぬのか?ということを考えて、こちらの「Death by Proxy – #3」を制作しました。

Death by Proxy #3 / 2022

ディスプレイが死んだときに、それでもイメージが立ち上がってくるのかどうか。

「ディスプレイが死ぬ」という比喩そのものが、面白いと思うんです。私たちは機械が動いてると「生きてる」って言うし、完全に電気が入らなくなったら「死んでる」って思ってしまう。機械に対して、まるで生命体かのような比喩を用いないと、実はその存在を正しく認識できなかったりする。

この作品では、物理的に破壊して完全に殺すのではなく、モノとして残りながら “機能の死”を与えています。イメージを生み出すための機械の、イメージを生み出すという機能の部分だけを殺す。そのために、裏側の基盤の必要な部分がどこにあるか一度分解して把握して、そこだけを綺麗に避けて、鉄パイプを刺しています。

なぜ、その作品をQUOカードに?

そのように機械を想定外のやり方で扱う、技術に対してハックするような表現が、QUOカードというものの表面に載る。そのズレが面白いのかな、と考えました。
あとシンプルに、壊れた機械の柄を機械に読ませる、ってめちゃくちゃ面白い行為だと思うんです。「QUOカードの表面に、ぶっ壊れた液晶ディスプレイの柄がでてたらカッコいいじゃん」という単純な気持ちです。

インプレッションを、すごく僕は大事にしていて。現代美術の世界ではそういうものが、批判の対象になることもあるんですね。なぜなら、その魅力によって思考を妨げたりする部分も当然あるから。
だけど…グラフィティ出身だからでしょうね。見た瞬間に人のケツをけっ飛ばすぐらいの衝撃を与えないとダメだと思ってるんです、自分の表現については。

インタビューを受けるHouxo Queさん

「僕が死んでしまった後の
未来の人々にどのように届くものであるのか」

グラフィティの世界から、どうしてアートへ?

正直言うと、10代のとき志してた道は職業的なデザイナーだったんです。
母がイラストレーターで、芸術に触れる機会は多かったんですが、アーティストにはなりたくなかった。家族を見ていて、芸術家が大変であるっていうことをよく知っていたからです。
当時ちょうど、叔父がカーデザインのデザイナーをバリバリやっていて、いいなと思ってた。ただ全く適性がなくて。人のために仕事をするみたいなことが向いてないんですね。

どうしようかと思っていた16〜17歳くらいのときに、グラフィティに出会ったんです。
アートでもデザインでもない、むしろその埒外にあるような表現なんですけれども、そこで渦巻いてるエネルギーにすごく魅了されて。そこからキャリアをスタートさせて活動していく中で、グラフィティからストリートアートへ移行していって徐々に自分の表現で生活できるようになった。けれども、同時にちょっと飽きてきちゃったんです。海外のトップクライアントを相手にするようになって、ある種、天井が見えてしまった。このままこれをずっとやっていてもしょうがないな、人生で本当にやるべきことは何だろうって考えていったときに、気がついたら自分がなりたくないと思っていた、コンテンポラリーアートのアーティストになっていたんです。

work in progress at MEDi Kochi / 2021

グラフィティとコンテンポラリーアート、
そしてデザインの違いは?

表現しようというラディカルな欲求は変わらないと思います。作家が向き合うもの、自身がエクスプレッションするものは、本質的には同質のものが流れていると感じるときはあります。
ただ、それぞれのルールや作法、その世界のやり方というのは当然ありますよね。例えばグラフィティなら路上には掟があるし、なにより瞬発力が非常に強い表現ですが、コンテンポラリーアートの場合は明確に、アートの歴史をちゃんとくみ取っていく仕事になる。
デザイナーについては、それこそ叔父とたまに話すんです。彼らも固有の歴史の上で仕事をしていて、そういう意味ではアートと変わらない。ただ、アートが明確に違うのは、時間的な超越を目指すことです。

アートにおける、時間的な超越とは?

美術作品というのは市場で売り買いされるだけではなくて、誰かが保管して時代を超えて残るものじゃないですか。例えば300年前の人がつくったものを、僕らは時代を超えて美術館で見ることができる。
美術は、ひとりの人間が生きる時間で考えるのではなく、その時間を超えて人の社会に残っていく。そういうミッションを帯びているんです。2022年に生きてる人が、2532年の人とつながりをつくれるものは美術作品だけなのかな、と。

作品を通して、生きてる人も死んでしまった人も、これから生まれてくる人たちも、すべてを同列に結びつけられる。だから自分の表現が100年後や300年後、僕が死んでしまった後の未来の人々にどのように届くものであるのか、というのは常に考えながら制作しています。
ただ、時間を超えるというのはとても困難なことなんです。物はボロボロになるし、人はいつか死んでしまうし忘れてしまうから。そういった荒波のように押し寄せて削り取っていくことに耐えるものをつくることがアーティストの仕事なのだろうと思っています。

じゃあ、その“時間の波”を超えて残すべきものはどんなものか?それは、何か改まって表現しようとしたものというより、私たちが今どうやってスマートフォンとか、テクノロジーと生々しく触れ合っていたのか。そういう記録に美学を込めることに、価値があると思うんです。

work in progress for YSL / 2015

その時代の「普通」を残す、
ということも、アーティストの役割だと。

僕は、アーティストは特別な人間でも何でもないと思ってるんですよ。その辺で当たり前に、同じように生活してるわけじゃないですか。じゃあなんでその人がアーティストかというのは、専門的な知識と技術があるからにすぎない。八百屋と変わらないって思ってます。八百屋は野菜がわかる。野菜を売れる。アーティストはアートがわかる。アートが売れる。それぐらいの話なのかなって思う。

アーティストであることより、その人が研究していることや、何を時代に問おうとしているのかっていう部分に本来、価値があるはず。それを見失わないようにいることが大事だと思っています。

16,777,216 view #3, #4, #5, #6 / 2016

「もったいなくて使いたくない、
くらいになってくれたら嬉しい」

Queさんはディスプレイとともに、
水というモチーフもよく使われます。
水というものにも関心をお持ちなんですか?

正確に言うと水面ですね、すごく関心があるのは。私たちにとって、液晶ディスプレイなどのマトリクス型表示機器が一番新しいイメージだとしたら、一番古いものって水面だと思うんです。人間が自分たちのものをつくり出せるようになる前に、世界を映すものとして出会ったものは、間違いなく水面であったはず。人間が一番原初に見た、イメージそのものだと思います。
一番古いものに一番新しいものを与える。その営為の中で、私たちの歴史を原初から現代まで圧縮し一望することができないか、と考えてつくっています。

ディスプレイと
Queさん自身との関わりで言えば、
小さい頃からテレビやゲームは
お好きだったんですか?

大好きですね。小学生のときにスーパーファミコンが出て。パソコン通信からインターネットに切り替わり出した世代。テクノロジーの隆盛があまりにも自分自身の原体験の中に深く関わっているゆえに、自分にとって無視できないものなのかなと思うところがあります。

このスマートフォンにしても、僕にとっては途中から出てきたもの。だけどこれが当たり前にある中で育ってきた子どもたちにとっては、もはや蛇口をひねれば水が出るのと同じような感覚のものになっていく。でも、そういう変化を知らない世代だからこそ見出せる、新しい価値の発見というものも面白いと思っています。

un/real engine / 2020

例えば最近、僕よりも若い世代が、使い捨てカメラをすごく楽しんで使っている。お店に出してやっと写真ができあがるという、スマホで撮るのと比べたら煩わしいものですよね。でも彼らにとっては、それが面白い。

そういう意味では、タッチで決済できるような時代に、お財布からQUOカードを出すのは、ちょっと煩わしい行為になっていってしまうのかもしれない。でも、それをおもしろいと思うかもしれない。そしてそのときに、僕の作品が載っていることが付加価値になって、もったいなくて使いたくない、くらいになってくれたら嬉しいですね。1回決済しちゃうと価値が下がるような気がして使えないとか、彼女の前でかっこつけたいから、ARTIST × QUOのカードを使う…とか、してくれたら面白いですよね。

インタビューを受けるHouxo Queさん

「ひたすら異常に巨大な
作品とかをつくってみたいな」

これから挑戦してみたいことは。

地図に残るような作品をつくりたいですね。
70年代とかの作家たちって、ランドアートといって、本当に巨大な作品をつくったんです。砂漠に避雷針を立てまくって、雷が落ちるのが見れるぞ、とか。めちゃくちゃかっけーことをやってたんですよね。ランドアートの作家たちにはそれぞれ美学や考えがあって制作したと思うんですが、もし自分が実行するとしたら、現代でそのスケールへ到達する想像力をどうやって生々しく持てるのか、ということをよく考えます。パソコン上でCADとか使えばどうなるか見れるけれど、そのときに自分の身体のスケール感を超えていくものを地続きに感覚として持つというのが難しいというか、なにかのフレームに絡め取られてるような気がしたんです。

ランドアートのような、その巨大なものに到達する想像力を、今すぐには持てない。だったら自分の想像力っていう技術を、そこに届くまで鍛えなきゃいけないんじゃないか、と。めちゃくちゃデカいことからすごい小さいものまで、バリエーションをもってちゃんと考えられるようになりたい。なので、ひたすら異常に巨大な作品とかをつくってみたいなと思っています。

Houxo Queさん

Houxo Que ホウコォ キュウ

10代でグラフィティと出会い、ストリートで壁画中心の制作活動を始める。 以後現在まで蛍光塗料を用いたペインティング作品とブラック・ライトを使用したインスタレーションで知られる。作品の制作過程をショーとして見せるライブペイントも数多く実施。2012年頃よりディスプレイに直接ペイントする作品の制作を開始、2014年BCTION、2015年Gallery OUT of PLACEにて16,777,216viewシリーズを発表した後、様々な企画展示およびアートフェアなどで活躍、現代アートのシーンにおいて注目を集めている。

アートでつながる。アートをつなぐ。

アーティストの手から生まれた作品を、
あなたの心へ、そして大切なだれかへ。
35周年を記念した、特別なQUOカードです。

QUOカード
QUOカードケース

ARTIST Interviews

アートでつながる。アートをつなぐ。 Houxo Que × QUO